琉球王国への郷愁

ペトロ・カスイ岐部は現大分県国見町が生んだ偉大な国際人だ。日本人として初めて聖都エルサレムの地を踏んだあとローマに到達して、叙階。切支丹禁制下の江戸時代初期にアフリカ経由で帰国を果たすが、仙台で捕縛され、凄絶な拷問死を遂げた(1639年)。国見町岐部のペトロ・カスイ岐部公園に立つこの殉教カトリック司祭の銅像は意志的な顔をローマに向けている。有名な桂浜(高知県)の坂本竜馬像が太平洋の彼方に好奇の視線を投げていることが思い合わされる。彼らは海の日本人だった。国際的気宇をもつ。
偉人と対比させるようでおこがましくはあるが、わたしは絵に描(か)いたような山里を故郷にもつ山の日本人だ。懐郷心は海村日本人よりも強いが、視野が狭く自閉的とされる。そういうわたしに微量でも国際的な感覚が認められるとすれば、ひとえにそれは海国琉球に想いを募らせた結果に他ならない。
わたしは泳ぐことができるにもかかわらず海洋を恐れる山人で、海と聞けば風浪、波涛、遭難を連想し、挙句の果ては遣唐使船の難破、元寇、黒船による威嚇、バルチック艦隊の来攻といった史実までが順列に思い出されて怖気づいたものだ。ひところまで、なにかしら恐ろしい場所、敵がやってくるところ、交流や交通を遮断するものといった暗い海(うみ)観がわたしの中に家霊のごとく棲みついていたのである。
そういう固定観を打ち砕いてくれたのも他ならぬ琉球国だった。いまも沖縄方言に「海を歩く」というイディオムが受け継がれているように、独立王国450年の歴史は海を歩いた人々によって刻まれたのだ。物資が往来し、文化が交通し、人々が行き交うところというポジティブな海観に感応できたとき、海がもたらした歴史の翳(薩摩侵攻、沖縄戦など)を不覚にも思うことなく、なにやら急に沖縄・琉球が理解できたような気がして、こころが華やいだのを覚えている。むろん今のわたしにとり、沖縄の碧海はただ美しいだけではないが・・・。
2004年10月に沖縄研究会が発足したとき顧問就任を要請され、快く応諾した。そして迷うことなく二ライカナイを研究会の別称として進呈した。この名を呼べば、海の彼方に理想郷を求めた海洋王国の息づかいが波動してきそうで、はるかに遠のいた時間への郷愁が疼くのを感じるからだ。 (『二ライカナイ』序文、2006年2月)
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